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ナマステ🙏 無我 No-SelfBuddhaの言う No-Self ー無我。 まったくの空っぽ。 無。 シヴァシャクティの講座や リトリートに参加される方々が 瞑想プラクティスを終えて 「今どんな感じですか?」 と尋ねられたときに こんなふうに応える方が多い。 マインド、 つまり言語で表現できる 領域を遙かに超えたとき 人は 空っぽ とか 無 とか 。。。。。(静寂のみ) とか 表現できない何かを 表現しようと試みたときに こんな感じになります。 このメルマガを 読んでくれている多くの方は、 そんな瞬間を経験したことが あると思います。 4/24-25で開催される 週末二日間瞑想の旅では、 ここへ皆さんと 一緒にいきたいです。 そこからスタートする。 そこから、 で、 私が死んだら 何が恋しがってくれるのだろうか? What will miss me when I die? の公案へと深くダイブしていく予定です。 The Power of Understandingシヴァシャクティでは この「理解する力」に主眼をおいています。 なぜなら 真の理解が起こるとき、 過去・現在・未来の ガラクタを瞬時に一掃し 死んでもなお、 次の身体へと移行してもなお この理解は消えることなく だからこそ、 今生、この身体が在るあいだに かなり抽象的な ここに共感してくださる方や それって一体何だろう? と思いながらも 出会いを希求される方を 追伸 でも、最初のフレーズだけ
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⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⓦⓔⓛⓒⓞⓜⓔ..:*♪ このメルマガはシェア大歓迎♪ もし、私たちの発信内容が面白いなと思ってくれそうな友人がいたら、このメルマガを紹介していただけると嬉しいです🙏💓 https://pages.shivashakti.jp/mail-magazine いつも読んでくださってありがとうございます。 ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ |
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シヴァシャクティ公式LINE などなどご要望にお応えしていきます。
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東京生まれ日本人、インド在住。古代インドの叡智である自己変容の科学「タントラ」を現代人に分かりやすく伝える講座&個人セッションをインド人男性講師ウッタムと共に分かち合っている。瞑想者をサポートするオンライン・コミュニティShivaShakti ONLINE Space主宰。
ナマステ🙏トーシャンです。 これを知らずには死ねない 身近な誰かが 死を迎えた経験がある人は 残されたものとしての痛みや悲しみ、 後悔や悔しさ、怒り、憤りとともに その人への恋しさを感じます。 もし自分に子どもや孫がいる人ならば、自分が死んだら彼らは恋しがってくれるのではないか そうであれば嬉しいなぁ、、、 そんな風に思うかもしれません。 自分の胸にそっと聞いてみてほしい。はて、本当にそうだろうか? また伴侶を持たず、子を持たずましてやこの世界に貢献した何かもなく財もなく、 墓場まで自分を運んでくれる保証もなければ頼める誰かもいない。 もしそんな状況だとしたら、もしそんな状況になりそうだとしたら 自分が死んだときに誰が恋しいと思ってくれるのでしょうか? 自分は骨壷のなかから何を恋しいと思うのでしょうか? 「自分が肉体を離れた 後のことなんてカンケーないさ。 あとは野となれ山となれ。」 万が一にもそんな思いがあるとしたら いま一度自分自身と確かめ合う必要があるかもしれません。 死がやってくるその瞬間ではなく、その前に うん、いいよ もういけるね そんな風に逝くことができるなら...
ナマステ🙏トーシャンです。 What will miss me when I die? 久しぶりのメルマガ配信です。 少し前にインドから戻り バタバタしていたのですが、 ようやく日本の春の移ろいやすさや繊細さを楽しめる余裕がでてきました。 こうして今日も このメルマガを開封してくれて 本当にありがとうございます。 私が死んだら何が恋しがってくれるのか? 告知が遅くなっておりますが、 4月24日〜25日に 週末二日間瞑想の旅#26を 開催いたします。 今回のテーマは、 「私が死んだら何が恋しがってくれるのか?」 という公案の問いかけ。 死についてはシヴァシャクティの ティーチャートレーニングで 一番最初に学ぶテーマなのですが、 とりわけ今回は強烈、です。 私が死んだら、、、 なんてリアリティー あまり感じられないなぁ という方には積極的に お勧めできませんが 死が前よりも いろんな意味で近くに 感じるようになっている そんな方を大歓迎したい、です。 一緒に追求してみませんか? https://bit.ly/4vCz2Sj 愛をこめてトーシャン...
ナマステ🙏トーシャンです。 1953年3月21日 1953年3月21日の運命の日のことを思い出す。何度も生まれ変わり、自分自身のために努力し、もがき、できることは何でもやってきたが、何も起こらなかった。 なぜ何も起こらなかったのか、今ならわかる。その努力こそが障壁で、その梯子こそが邪魔で、求める気持ちこそが障害だっだ。求めていないから到達できるわけではない。求めることは必要だが、ある時点で求めることをやめなければならない。川を渡るには船が必要だが、ある瞬間には船から降りて、すべてを忘れ、置いていかなければならない。努力は必要で、努力なしでは何もできない。そして、努力だけで何もできない。 1953年3月21日の直前、7日前、私は自分自身への努力をやめた。努力の無益さをすべて悟る瞬間が来る。できることはすべてやったのにもかかわらず、何も起こらない。人間としてできることはすべてやった。それから、他に何ができる?ただ無力感の中で、すべての探求を放棄するんだ。...